第三章 子供時代

 

アイリスが1歳と6か月ぐらいの頃、イリノイ州立大学アーバナ・シャンペイン校に移り、そこでショージンは教鞭をとりました。しかし、同時に学期が始まる前の8月に彼はコロラド州ボルダーで行われる物理学ワークショップに参加する予定でした。

 

196982日、私たちは初めて買ったグリーンの新車ドッジ・ダートに乗り西へ向かいました。その車はニュージャージー州とペンシルバニア州の境にあるディーラーから2400ドルで購入しました。当時はお金があまりありませんでしたのでオートマやエアコンなどの付いてない普通の車を買いました。

 

まず、アーバナへドライブして大学のキャンパスに行き、秋に住むための場所を探しました。私たちは新築の二世帯用住宅を見つけました。その一部を借りて中古の家具を買いました。これらのひと仕事を終えてコロラドへ向けてドライブを続けました。アイオワ州とネブラスカ州のトウモロコシ畑の景色とコロラド州の美しいロッキー山脈を抜けて進んでいきました。ブルダーに着くとショージンはサマーキャンプの同窓会みたいに物理学の友人たちと再会しました。ショージンは日中、物理の研究をして私はアイリスと買い物をしました。夕方はショージンが友達を家に呼んで非公式の会合をやっていました。週末はアイリスを背負って近くの散歩道をハイキングしました。交代々でアイリスをおんぶしました。私たちは近くの州立公園をたくさん見学しました。もちろんロッキーマウンテン国立公園が最も印象的でした。私はこんな美しいところに一生住めるようになることを密かに祈りました。

 

ブルダーのワークショップが終わった後、私たちはアーバナへ向けてドライブしました。当時17か月だったアイリスは機嫌がよくありませんでした。家へ戻る途中で彼女は高い熱を出しました。エアコンのない車は役に立ちません。8月末のことで車の中の温度は耐え難いほど高くなっていました。私たちは涼しい夜になってから帰ることにして、日中はエアコン完備のモーテルで休むことにしました。その夜私たちはオマハの小さな町で車を止めました。医者にかかるには遅すぎましたが、電話で相談することができました。電話の向こうの医者はアイリスを見ることもなくただ彼女の熱を下げなさいと言うだけです。それは私たちが今必死にやっていることでした。

 

アイリスの状態が気がかりだったのでできるだけ早くアーバナに戻りたいと思いました。彼女は熱で泣きわめいていました。私はなだめようと必死です。でも私にできることは彼女を打つ手もなく眺めることだけでした。その時突然30年以上前の辛かった戦時中に成長期の私の兄や姉や私が病気になったときの両親の気持ちを想い出しました。8月の月明かりもない暗い夜にショージンの運転する車がアイオワ州を通りかかったとき193040年代の日中戦争のことがフラッシュバックしてきました。

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私は1940年に重慶で生まれました。当時重慶は8年続いた抗日戦争中の首都でした。1940年は中国人にとって大きな試練の年でした。日本軍が真珠湾攻撃をしてアメリカをアジアの戦争に巻き込んだほんの1年前のことです。中国は日本が満州を侵略した1931年以来一国で日本と戦っていました。

 

私の両親は多くの難民と一緒に1937年に南京から避難してきました。まず揚子江の武漢、それから列車で南北線の主要駅の近くにある小さな町衡山へ行きました。ここに降りたのは私の母が妊娠期間の最後の月だったからです。母は1938年中国の新年の6日後に生まれた兄のチェン・チェンを負んぶしていました。

 

日本軍は1940年には中国の東北部と南部のかなりの地域を占領していました。そして南西地方の爆撃を開始しました。重慶は首都でしたので攻撃の中心になりました。日本の爆撃機は日夜を問わず重慶に爆弾の雨を降らせて中国を屈服させようとしました。両親の話では空襲は一日に一回か二回行われました。空襲警報が鳴るとみんな仕事を止めて防空壕に入りました。当時の中国の空軍には制空権を守るだけの力はありませんでした。20機から50機の日本の爆撃機が重慶の上空に頻繁に現れ思いのままに爆撃をしていき、数千人の市民が犠牲になり、彼らの家や学校、病院も破壊されました。

 

後に私たちは両親から空爆後彼らが見た地獄の話を聞きました。火事はいつも絶えなかった。家がブロックごと破壊されていた。父は黒焦げの死体をあちこちで見て、焼けただれた死体の悪臭が一面を覆っていた。母の見たものは黒焦げの赤ん坊を抱いた火傷を負った母親の姿だった。彼女は子供を助けようとして自分も火傷をしたのである。他にも両親の忘れられない恐怖の場面がたくさんある。たとえば、木から垂れ下がった腕、電線にひっかかった足の一部などは空襲の地獄をグロテスクに表している。

 

 

私が生まれる数週間前、父は揚子江のそばにあった重慶中央病院に母を入院させました。父はこの病院は頑丈な造りだったので母が安全だろうと考えました。しかし、日本軍は数日後この病院も爆撃して一部は破壊されました。母は幸運にも病院の防空壕に連れられどうにか一命をとりとめました。 

日本軍の絶え間ない爆撃を避けるために父は防空壕の役目を果たす自然の洞窟がたくさんある山の中の村に家族を連れて行きました。当時は生きることがとても辛い時代でした。物がない時代です。特に医療品は不足していました。日常品は贅沢品です。日本軍は空爆で私たちの供給ルートを遮断します。すべてのものが戦争に勝つ目的に使われていました。 

当時の私はアメーバによる下痢を患っていました。汚染食品を食べたり、不衛生な水を飲んだりしたからです。両親の話では私は高熱をだし、下痢で出血していたそうです。現代ではそういう病気は近代的な薬が簡単に治してくれます。しかし、当時の悪環境の下では生死の問題になったのです。父は重慶中の薬屋に必至で駆け込み必要な薬を探し求めました。奇跡的に重慶の小さな路地の小さな店にそれはありました。そして私は助かりました。 

月のない暗いその夜、アイオワ州の寂しいトウモロコシ畑を私たちの車が通り抜ける時、私はアイリスの額に手をやり、親の子供に対する愛の意味が本当にわかりました。それは犠牲の精神であり、無条件の愛なのです。この時こういう感情に触れて本当に感動しました。 

1969年の労働感謝の日の近くにアーバナに到着し、借家の二世帯用住宅に移りました。その家はシャンペインの西に位置していました。アーバナとシャンペインは姉妹都市でシャンペインはアーバナの西にあります。イリノイ大学の主キャンパスはアーバナにあります。 

住宅が決まったら今度は仕事を探しました。私は大学の生化学部に応募しました。二か月待って、ローエル・ヘイガー教授が電話で私を非常勤として雇いたいと言ってきました。私の立場としては理想的でした。それで私は11月に研究員として仕事を始めました。その時アイリスは1歳と7か月です。 

私はベビー・シッターが必要でした。運よくアイリスと同年の男の子を持つ一人の学生の妻Hsuさんを紹介されました。午前中アイリスをHsuさんの家に預け仕事帰りに連れて帰ることにしました。アイリスは最初の数回は降ろすと泣き出しましたが、次第に慣れてHsuさんの息子とも仲良くなりました。これは私にとって大きな安堵となりました。Hsuさんは素晴らしい女性でありよき母親でもありました。アイリスにもとても親切にしてくれました。 

ある日、私は彼女に「アイリスが以前ほど笑わなくなり、しかめっ面をするようになったけどどうしてかしら?」と言うと、彼女は「あなたは最近笑顔を忘れていませんか?」と問われました。その言葉に私は目を覚ましました。確かに、当時ショージンと私は学部内の問題で悩んで気分がすぐれませんでした。Hsuさんは私にリラックスして人生を謳歌するよう勇気づけてくれました。その時から私はよく鏡の前で自分の顔を見て笑顔の練習をしました。笑顔は容姿に大きな影響を与えます。アイリスは私の顔に現れたものを見ていたのです。彼女はそれを真似て、見たものすべてを模範としていたのです。 

ショージンと私はすでに第二児の出産のことを考えていました。1970年2月私は再び妊娠していることがわかりました。人生は本当に忙しいものです。ショージンは教育と研究に打ち込み、数本の論文も出版していました。私も研究所での仕事をしながら、アイリスの面倒を見て、家事にも追われていました。私が研究所にいないときは料理と買い物で大半の時間はつぶれます。外部からの援助はありません。実際、他人を雇うだけの余裕はありませんでした。ベビー・シッターの支払いだけで収入の多くは飛んでいきます。 

1970年3月、台湾の私の母が危篤になり、私もダウンしました。妊娠と研究と面倒を見なければならない子供が肉体的にも精神的にも私を参らせました。私には休暇が必要でした。台湾の母の見舞いに行く必要もありました。それで仕事を始めて6か月後に私は辞めることにしました。私は母とアイリス、そして次に生まれてくる子供の準備に専念することにしました。 

アイリスは私が家で一緒にいれるようになって嬉しそうでした。私にとっても幸せな時間でした。私はミシンを買ってアイリスや自分のためにちょっとした服を縫うことにしました。私とアイリスがお揃いの服を着て外出すると人の注目を浴びたものでした。素敵な親子だと言ってくれました。こうしてアイリスは美しく活動的な女の子に育っていきました。彼女はとても元気で私に中国語で話しかけるのが好きでした。 

アーバナ・シャンペインはシカゴから140マイル離れた中規模の大学都市です。大学が町の中心です。町の人全体が大学の関係者のような感じでした。私はショージンの同僚やその奥さんたちと楽しい時を過ごしました。また、町に大きな中国系アメリカ人の組織も見つけました。みんな私たち新参者に対して親切でした。町を案内してくれる優しい人たちとも出会いました。この中西部の大学都市でみられるこの種の誠実さや優しさは今まで私たちが住んできた大都市にはないものでした。このおかげで私たちはこの地に長年楽しく過ごせたのだと思います。 

1970年9月24日マイケルの誕生です。アイリスにとって弟が生まれたという考えに慣れるのに数か月かかりました。アイリスはマイケルの存在を喜んでいましたが、彼女の感情は複雑だったと思います。今まで家族の注目を一身に浴びていたのに、今では私の注目の半分はマイケルに取られたのですから。 

マイケル誕生から6か月経ち、アイリスが3歳の頃、私はアイリスには同年の子供たちと遊ばせる必要があると感じました。そして、近所の幼稚園に週2、3回通わせることにしました。

1971年の夏が来たとき、ショージンは家族全員を連れてシカゴの近くの国立ファーミ・アクセラレイター研究所に一か月間行きました。それから、物理学学会とワークショップが行われていたコロラド州アスペンに行き、ロッキー山脈で一か月過ごしました。中国には「百聞は一見に如かず」という諺があります。私たちもそれを信じています。子供たちに世界を見せるため、できるだけたくさんの所に行きました。 

1971年の春、南部中央シャンペインのブロードモアー・ドライブ1101で大きなフェンスのある裏庭付の古い小さな一軒家を見つけました。この家は私たちが購入した最初の家です。ショージンは野菜畑を始め、トマト、豆、ネギなどを栽培しました。また、アイリスとマイケルが運動できるようにセットをそろえました。裏庭の真ん中に大きなカエデの木が立っていました。アイリス木の下やブランコに乗って遊んでいました。彼女はぶらんこが大好きで運動の道具を使って長い間過ごしました。彼女とマイケルは裏玄関に置いてある大きな丸いプラスティックのプールの中でオモチャを持って水遊びをしていました。シャンペインの夏は暑かったので、大きなフェンスに囲まれ、木や芝生のある庭は子供たちにとって理想の環境でした。 

田園生活とは裏腹に1971年は私たちの生活は苦しい時代でした。ショージンは研究に懸命でしたので物理学部に気に入られました。権威ある物理学ジャーナルに彼の多くの論文が掲載され、その分野で一流の物理学者の一人とみなされるようになりました。学生からも優秀な教師と評価されました。これは彼のような英語が母国語でない移民にとって大きな名誉でした。学部は二年後には終身在職権が付く准教授に昇格しました。しかし、不運なことにイリノイ大学は当時イリノイ州の予算削減の政策によって大学の全予算を凍結しました。その年は全大学給料の値上げはありませんでした。ショージンは昇格しましたが、給料は据え置きでした。私たちは新しい住宅ローンの支払いがあるし、家も改築が必要でした。今や2人の子供を抱える4人家族です。財政的ピンチ到来です。私が再び働かなければならない時がやってきました。

1971年の秋、私はイリノイ大学の生化学部のヘイガー博士の研究所に戻りました。私は1970年の春以来研究所から遠ざかっていましたが、休暇中も興味深い講演者が招かれた時には学部主催のセミナーには時々参加しました。私はいつも時代遅れにならないように気を付けていました。

 

アイリスは私たちの家の向かいにあるモンテッソリー式幼稚園に通わせました。私が朝仕事に行く前に歩いて送っていけるのでとても便利でした。この家を買った大きな理由の一つがこれでした。

 

アイリスはモンテッソリー式幼稚園には合わないようでした。過度に指を銜える習慣がつき始めました。真夜中に目を覚ますこともよくありました。アイリスにとって新しい家、新しい学校に加えて私たちの忙しい生活が彼女の感情を不安定にしたようでした。彼女は夜には悪夢にうなされ、私たちの愛を求めていました。アイリスはこのような幼少のころから傷つきやすい繊細な心を持っていました。周りで起こったことに対して普通の子以上に敏感であったようです。私は彼女の感情に対してもっと特別に優しいやり方で接する必要を学びました。

 

 

1972年、私の両親はアメリカに移住してニューヨーク市に住みまし。アイリスとマイケルはとうとう祖父母に直接会うことができました。私の母は1968年、アイリスが生後数か月の時にアメリカの私たちを訪問したことがありますが、アイリスは覚えていません。アイリスとマイケルは台湾に住んでいた祖父母のことは知っていましたが、直接会うのは特別な体験になるでしょう。

 

1972年の夏、ショージンがニューヨーク、ロング・アイランドにあるブルックヘイブン国立研究所を訪れる機会がありました。ここは私の両親の住むニューヨークの近くでした。

 

私の両親は当面の間兄が斡旋した借家に住んでいました。当時父は78歳で母は58歳でした。アメリカは彼らの長い人生の最後の地となりました。彼らは中国本土で育ち、日中戦争を生き延び、国民党と共産党の内戦を経て、最後に台湾に移住しました。彼らの5人の子供は全員アメリカにいますが、彼ら自身が退職後アメリカに来るとは夢にも思っていなかったでしょう。

 

1972年の夏、私たちが両親を訪れた時、彼らはアメリカに来て数か月の時で、アメリカの新しい生活に慣れるため奮闘していました。特に父にとっては大変でした。彼は太平洋横断の時もアメリカ国内旅行の時も飛行機は頭痛の種だと言っていました。時差ボケから回復するのに時間がかかりました。一方母はアイリスとマイケルに会えて喜んでいました。彼女は五人の子供を一生涯愛情込めて育ててきました。アイリスは母にとって最初の孫娘で、前述したように、母はアイリスが生後数か月の時にプリンストンに来て数か月間アイリスの面倒を見てくれました。だから母にとってアイリスは特別な子でもあったのです。母は料理が得意で、私たちが訪問した時、まず台所に行って私たち全員をもてなすためにおいしい料理を作ってくれました。母はみんなが彼女の料理をおいしく食べるのを見るのが大好きでした。それは彼女にとって養育と愛情の表現でもあったのです。

 

アイリスは父が台湾から持ってきた本が寝室で箱詰にされているのを見て驚いていました。私はアイリスに彼女の祖父は多くの本を読んだ学者であり、たくさんの著書も出している偉大な作家であることを教えました。

 

祖父は機会あるごとにアイリスとマイケルに講話をしていました。彼はいつも、頭痛の時でさえも、中国文化の大切さを教え、中国語の読み書きを学ばなければならないと言っていました。マイケルは父の言うことが理解できていなかったと思います。途中で逃げ出していましたから。しかし、アイリスは好奇心旺盛でした。彼女はじっと聞いていましたが、後で「お爺ちゃんはなぜあんなに大声で話すの?」と訊いていました。私は密かに笑いながら、二人はやはりお婆ちゃんのおいしい料理の方が気に入ってるんだな、と思いました。

 

父はある時私をそばに呼び、アイリスとマイケルには中国語の教育を忘れないようにと念を押しました。父のしゃべり方は、もうこれが最後であるかのような様子でした。でも、実はそれは間違いで、90歳代まで長生きしました。しかし、私が10年前アメリカに経ってから初めての再会だったその日、父はこう言いました。「お前はアメリカに西洋の近代技術を学びに来た。しかし、中国には5千年の歴史があることを忘れてはならない。哲学や倫理に関しても西洋は我々から学ばなければならない」父はとても誇りを持った人でした。国に忠誠を誓った中国文化の熱烈な愛好者でした。彼はいつも私に中国文学と哲学の美を教えてくれました。どこに行こうとも私たち中国のルーツを忘れてはならないと。彼は強く言っていました。「中国人のプライドを決して忘れてはならない!」と。

 

1972年の春、ショージンはスローン奨学金を受けました。このために教職の義務が免除されました。そこで1972年の秋に一年間プリンストン大学の研究室に通うことにしました。彼の計画はこの訪問後はヨーロッパに行って、ジュネーブが本部にあるヨーロッパ核研究所「CERN」を訪れることでした。私たちは1972年の夏の終わりにブルックリン国立研究所から戻った時、シャンペインの家を一年間貸してプリンストンに出かけました。

 

私は、多くの女性が過去においても今でも家庭と仕事の狭間で悩んでいるように、悩みました。私は仕事も成功させたいし幸せな家庭も築きたかった。

 

マイケル誕生の後、私は一年間仕事を休み家事に専念しました。しかし、マイケルとアイリスに対する全幅の愛はあっても家事は退屈だし鬱憤がたまります。だから、また仕事を始めました。しかし、ここでまた違った理由で鬱憤がたまりました。ベビー・シッターがこちらの希望に沿いませんでした。仕事から帰ると、しなければならない家事が山ほどです。もうくたくたになりました。私が1972年に取ろうとした休暇は、私に考える時間を与え、顧みて、私の人生にとって本当に最も大切なことは何かと自問するチャンスを与えてくれました。

 

プリンストンに戻った時、再び専業主婦になれるチャンスが来ました。たぶんこのニュー・ジャージーの魅力的な小都市の美しい光景がすべてを解決してくれるでしょう。私はプリンストンに戻ってきてとても幸せでした。

                                                               

このころアイリスはもう5歳になる頃です。もうすぐ誕生日です。私はいつもゆっくり時間をとって家族のために食事を作ったり、クッキーやケーキを作ることのできる専業主婦に憧れていました。アイリスの誕生日には何かしてあげなければならないと思っていました。私はたまたま女性誌などで美しい「ジンジャー入り菓子パン」の家の写真を見ました。私は「これだ!」と思いました。

 

私はアイリスに5歳の誕生日にはジンジャーブレッド・ハウスを作って、友達を呼んであげるね、と言ったらとても喜んでいました。誕生日の前日、アイリスは私がキッチンで支度をしているのを見ていました。彼女はジンジャーブレッド・ハウスの飾りに使うMMキャンディーをマイケルから取られないように見張り役も演じていました。その時私は仕事を止め、忙しくはなく、口うるさくもありませんでしたのでアイリスもマイケルも嬉しそうで愛想よくしていました。やっと家の中に長い間見られなかった平和な時間が戻ってきました。

 

私たちはジンジャーブレッドを一枚焼きました。それを壁や天井のサイズに合わせて切りました。粉末砂糖に少し水を混ぜ、それを糊として使い家を組み立てました。また、手をつないだジンジャーブレッド人間を作り、家の前にフェンスの役割で置きました。紅白の飴の杖やチョコレート・チップ・クッキー、そして色とりどりのM&Mキャンディーを使って玄関や、天井や煙突を飾りました。最後にジンジャーブレッド・ハウスが完成しました。アイリスはその美しさに圧倒され、とても興奮していました。彼女は「これ食べないでおきましょう。少なくともパーティが終わってもしばらくはこのままにしていいでしょう?」と言っていました。

 

パーティーの日がやって来たとき、友達はみんなジンジャーブレッド・ハウスを見て喜んでいました。その周りを取り囲み、装飾を指さして「きれいだわ!」と言っていました。みんな「アイリスはラッキーだね」ともてはやされていました。この時アイリスはみんなの注目の的になっていることがわかりました。彼女はとても喜んで、プライドを持った顔でジンジャーブレッド・ハウスをじっと見つめていました。この時は私も達成感を感じていました。

 

プリンストンでの1年は幸せな時間でした。これは特に私たちが大学や周囲の町の様子がわかってきたからです。プリンストン大学の訪問者のほとんどは外国から来た数学、物理、歴史、経済の分野の学者でした。私たちはドイツ、スイス、フランス、ギリシャ、チェコ、アイルランドなどの国から来た家族とお会いしました。このような環境の中で世界観を広げるチャンスがありました。興味深いことはこれらの訪問者のほとんどは英語をよく話せませんでした。だからバイリンガルやマルチリンガルであることは子供にとって有利だと感じました。このことは、子供に中国語と英語を教えることは後になって子供のためになるという私たちの前からの信念を再認識しました。

 

当時私はアイリスに読み方を教えようと思っていましたが、「子供に本の読み方を勧める法」という記事に遭遇しました。それによると親がカードに物の名前を書いてそれを貼り付けるといいということでした。だから私たちの家の中は貼り付けられたカードでいっぱいでした。例えば、椅子、テーブル、ランプ、ソファー、コップ等々です。私たちの友人は信じられない顔をして「まーこんなにまでして!アインシュタインにでもするつもりなの?」と笑いながらからかっていました。実は私たちはアインシュタイン通りに住んでいました。そしてプリンストン大学内の道路はすべてあの有名な物理学者で数学者の名にちなんで名付けられていました。だからたぶん私たちの脳裏には「アインシュタイン」が住んでいたのかもしれません。

 

アイリスは学内の住宅棟にあるプリ・スクールに通っていました。先生はとても優しいご婦人で、教室では自己表現が奨励されていました。アイリスはまだとてもシャイで学校ではあまりしゃべりませんでした。先生は特にアイリスをかわいがってくださり、彼女の殻から抜け出させようとしてくれました。アイリスが読書好きなことも教えてくれました。彼女の提案では、一緒に読んだ本の中の物語について話をさせるようにすれば、自分以外のことに興味をもって話すようになるのではないかと言っていました。

 

ある日、アイリスは私に物語を聞かせたい様子でしたので、私はそれを書いてごらんと言いました。家にはコンピューターでプリントアウトした不要の用紙がたくさんありましたのでそれを子供たちは文字を書いたり、お絵かき用に使っていました。アイリスはそれを使って絵をかき始め、マーカーペンで色を塗り物語が始まりました。それぞれのページに彼女の発話したことばを書かせました。これは「泥棒を捕まえろ!」という物語でした。全部終わった後私はそれをホッチギスで綴じて本にしました。表紙にはアイリス・チャン著と書きました。翌日アイリスはそれを学校に持っていき先生に見せました。私が迎えに行ったとき、先生はその物語をクラスみんなの前で朗読させたと言いました。大きな成果が生まれたと思いました。これは確かのアイリスの「処女作」であり、最初の朗読会でもありました。

 

プリンストンはニューヨーク市から一時間足らずの所にありました。週末にはよく二人の子供を連れてニューヨークに行き両親を尋ねました。私の姉のリンリンは両親より早くニューヨーク市に来て移住していました。リンリンは私より4歳年上で、台湾で新聞記者をしていました。彼女も父親同様に作家であり、詩人でもあり著作も数冊あります。アイリスはこの人たちに感銘を受けています。彼女はこの影響で密かに作家を夢見ていたのかもしれません。

 

プリンストンでの任期が1973年の春に切れた時、夏にヨーロッパ旅行を計画しました。ショー・ジンはジュネーブのCERN欧州原子核研究機構)を訪れる予定ですが、私にはもっと大きな計画がありました。この機会にできるだけ多くのヨーロッパの国を旅行しようと思っていました。

 

その夏の間、私たちはジュネーブに着く前にロンドン、アムステルダム。ベルギー、パリを旅行しました。パリに着いた頃には二人の子供はこんなジプシーのような生活には飽きて、もう博物館や歴史資料館などは見たくないと言い出しました。

 

遂にジュネーブ到着です。ここではショージンはCERNで数か月働くことになります。私たちはジュネーブ空港の近くの高層ビルに住むことになりました。アイリスは日中は近くにあるLa Rondというプリ・スクールに通いました。そこではフランス語と英語が話されています。私たちはすでにジュネーブの中にいるので、これを機会に近くにあるスイスの町や周りの国々を訪問しました。ヨーロッパでの4か月の終わり頃にはみんな一生涯分の城、寺院、博物館、泉、彫刻を満喫しましたのでみんな故郷が恋しくなっていました。

 

アメリカに戻ってからは、アイリスはイリノイ州シャンペインの家の近くのBottenfield School幼稚園に通わせました。マイケルはアイリスが通ったのと同じ家の向かいにあるモンテッソリー式幼稚園に通わせました。

 

ある日、アイリスは幼稚園の先生からの手紙を持って帰ってきました。その手紙にはアイリスにスピーチの障害があるということでした。先生は始業前に30分間毎日アイリスにスピーチ療法のクラスに入れて治癒してもいいかどうかの許可を求めるものでした。

私たちの最初の反応は「スピーチ療法?ありえない!」というものでした。

その後先生と話した後、アイリスは学校ではとてもシャイでクラスの討論では全然しゃべらないということがわかりました。これは家にいる時のアイリスとは全く異なるものです。アイリスは家ではとてもよくしゃべります。一般の子供より。学校のことも詳細にわたって際限なく私に話してくれます。私たちはアイリスを毎朝「特別スピーチクラス」に入れることに同意しました。また、先生のアドバイスで社交的にさせるために友達を家に招待して一緒に遊ばせました。すると間もなくして学校でも活動的になりクラスの仲良し友達も数人できました。それから何年もたった後、アイリスがテレビのインタビューでの雄弁な受け答えをしているのを見た時に、友人たちに「アイリスは小さい頃、とてもシャイで学校では無口だったのよ」と言っても誰も信じてくれませんでした。

 

1973年の秋にヨーロッパから帰国したとき、ショージンと私は二人の子供に中国語をしゃべるだけでなく、読み書きもできるように教える必要を強く感じていました。だから家では中国語を話しました。子供たちが英語で話しかけても中国語で答えて強制的に中国語をしゃべらせようとしました。しかし、ルールを作っても従わせるのは難しいこともありました。アイリスとマイケルは二人きりの時は英語でしゃべるからです。アイリスが幼稚園に入る頃までには、私は、アイリスが組織立った環境の中で中国語の読み書きができるような中国語教室を作る必要性を真剣に考えていました。

 

当時のアーバナ・シャンペインには中国系アメリカ人はあまりいませんでした。中国人の数が少なかったので募集をかけないで中国語教室を作るのは不可能でした。十分な生徒数を集めることなどなおさら難しいことでした。中国人の家庭では中国語を幼児から学ぶのは英語学習の妨げになるという考えがあったからです。しかし、その後1973年の秋に、私の説得と他の人の手も借りて、中国語教室を作ることができました。土曜日の朝、イリノイ大学のキャンパス内に約10人の子供が中国語教室に参集することになりました。

 

この授業に参加する子供たちはテレビの土曜の朝の漫画を見ることができませんでした。平日と同様に朝早く起きなければなりません。みんなぶつぶつ言っていました。アイリスは「どうして週末に中国語教室なんかに行かなければならないの?」と訊いた時、私たちは「世界はますます狭くなってきているから英語以外の言語を話せることはあなたにとって大きな武器になるのよ」と答えました。また、「中国語を習得しておけば、他に職がなかった場合でも将来国連で通訳ができるわ」と説得しました。すでに早熟だったアイリスはこの答えに納得した様子でした。

 

私たちはこの中国語教室に年月を費やし、私たちの二人の子供は小学校を卒業しました。中国語を教える時は(中華人民共和国が使っている簡体字)ではなく伝統的な繁体字を教えることにしましたが、発音に関しては中華人民共和国が使っているピーインのシステムを使うことにしました。当時としては中国語の繁体字ピーインを教えることは革新的なものでした。ピーインを使うことによる政治的意味合いは無視しました。振り返ってみると、その選択は正しかったようです。そしてそのやり方は子供たちにとって明らかに実りあるものでした。また、イリノイ大学の有名な言語学教授であるC.C. Cheng氏をわが校の初代教師としてお迎えしたことは光栄の至りでした。

 

今振り返ってみると、アイリスがアメリカでアイデンティティの問題で衝突を起こさなかったのは、幼児期から中国文化を学ばせたことによるものだと感じています。彼女は自分のルーツを知っており、中国系アメリカ人としての誇りを持っていました。

 

ブロードムーア・ドライブの家は大きい庭は素敵だけれど4人家族には小さすぎました。アイリスもマイケルも大きくなったので自分自身の寝室が必要になってきました。ヨーロッパから帰国後は家族のための家探しを始めました。1974年ショージンは物理学部の教授に昇進しました。これでもう暫くはシャンペイン・アーバナにいることになりそうです。もっといい家を探すことが急務になってきました。

 

私たちは素晴らしい小学校があるアーバナの東南地区の建設中の新しい家を買いました。私たちは家が完成後1974年の4月に入居しました。アイリスは私たちの家の近くのヤンキー・リッジ小学校に通いました。

 

その夏私は家の飾りで大忙しでしたが、ショージンは裏庭に新しい野菜園を作りました。ここでも庭のわきに新しいジムを作りました。新しい家なので景観を整えるためのすべての仕事は私たち自身でやりました。ショージンと私は切り芝を敷いて、それから庭全体に木や柴を植えました。二人は夏の炎天下の中で穴掘りと植樹に汗を流しました。こうすることでアメリカ西部の開拓者たちの生活がどんなものだったかが感じられますが、家畜は飼っていません。この時は子供たちに素晴らしい家を作り、私たちのアメリカン・ドリームを実現するために一生懸命働く時代でした。

 

私たちの家はブロックの端から二番目にありました。端の土地は空き地でその向こうに広々としたトウモロコシ畑が見えました。アイリスは補助車付の自転車に乗って歩道を探索し始めました。マイケルは隣の空き地で野球帽を振りかざして蝶々や他の昆虫を捕まえるのに夢中でした。空き地は草が生い茂り、クローバーには多くの蝶々が集まってきました。マイケルの子供時代で最も夢中になったのはその地域で一番美しい蝶々や蛾を捕まえることでした。アイリスもこれに興味を持ち、よく二人は一緒に昆虫狩りに出かけていました。――マイケルはガラスの瓶を、アイリスは蝶々取り網を持って。二人は一度赤ちゃんの手のひらサイズのとても美しく繊細な蛾を捕まえましたことがありました。新学期が始まる前の夏に私たちは新しい家に引っ越しました。私たちはアイリスにボールドウインの縦型ピアノを買いました。私が子供の時は楽器を習う機会はありませんでした。ピアノを弾くことは私の子供時代からの夢でした。繰り返しになりますが、私は日本軍が無慈悲に侵略を続けた激しい日中戦争の最中に中国の戦時首都重慶で生まれました。1945年戦争が終結した後も中国は内戦に苦しみました。私の両親は戦争から逃れるために私たちを数千マイル離れたところまで避難させました。私の子供時代の思い出は恐怖、心配、苦痛に満ちたものでした。私の両親は生き延びることしか考える余裕がありませんでした。だから子供には基本的な教育以外は何もできませんでした。もちろんピアノのレッスンなどと贅沢は言えません。1974年にショージンと私はやっとピアノを買うことができましたが、私の子供の時の夢は私の子供に託すことができました。私はクラシック音楽が大好きです。子供にもその素養をつけさせたいと思っています。

                                                                                                                             

次第に近所に住む多くの中国人の家族とも仲良くなりました。彼らの子供たちはみんな若くてヤンキー・リッジ・スクールに通っていました。一度数えたことがありますが、近所には10件くらいの中国人家族が住んでいます。みんなとても仲良しです。この家族はみな大学関係の人たちばかりで、私たちと同じような境遇の人たちでした。

 

1974年の夏、8月29日にショージンと私は結婚10周年を祝いました。新しい家と4人家族の生活に大変満足していました。新しい社会生活と新しい学校生活が始まりました。ダイナミックで興奮に満ちた新しい人生の門出です。まさにアメリカン・ドリームを掴んだかのようでした。

 

1974年の9月アイリスはアーバナのヤンキー・リッジ小学校の1年生になりました。子供が初めて小学校に通う姿を見ると母親にとって目がうるんできます。この地域のたいていの子供たちは大学関係の家庭です。だからどの家庭も子供の教育には力を入れていました。親からの期待も大きく、学校内では子供たち同士で競争心が生まれてきました。

 

アイリスが帰宅したとき、彼女はいつも学校での出来事を私に話していました。学校でからかわれたり、いじめられたことを話すのです。アイリスは傷つきやすく、なだめて気分転換させるのに時間がかかりました。これらの日常の会話は幼いころの母と娘の絆の形成に役立ちました。私は他の子供にはないアイリスの感受性の高さに驚かされることもありました。私は、彼女がとてもユニークなので忍耐強く接してあげなければならないことを認識していました。

 

1974年の感謝祭の時、これを普通のアメリカ人が祝うようにしようと考えていました。新居に新しい家具も備えて家族に家のぬくもりー愛と楽しさと感謝に満ちた家のぬくもりを感じてほしかった。過去の感謝祭ではアメリカ人の友達から招待された時その家に行ってお祝いをしました。そうでない場合は何もしませんでした。しかし、その年の感謝祭を祝う本当の理由は小学1年生からの報告でした。彼女は私たちの家族は感謝祭のお祝いをするのかどうかとクラスの友達に訊かれました。「あなたのお母さんは大きな七面鳥を焼いたりかぼちゃのパイをつくってくれるの?」

彼女は私たちの家族が今まで作っていなかったので恥ずかしい思いをしました。私はこう言いました。「今年は素晴らしい感謝祭のディナーを作るわよ」

 

感謝祭の前日、私は料理本を取り出してきて七面鳥の作り方を調べました。この鳥は4人家族でも大きすぎるくらいで、私の好物でもありません。私はアイリスに説得しました。「七面鳥を焼いた肉は固くておがくずのような味でおいしくないわよ」それでアメリカン・ベター・ホームズ料理本に紹介されている中国風の作りやすいレシピがあることを話しました。七面鳥の胸の肉を一口サイズに切り、溶けたバターにつけ、パンのくずで巻き、柔らかくなるまで焼きます。彼女は納得したようでした。私はかぼちゃのパイもぺカンのパイもロールパンも焼きました。でも、もちろんこれはみんな食料品店から買ってきた冷凍食品ばかりです。アイリスのお気に入りはかぼちゃのパイでした。

 

感謝祭の日はいつになく寒い日だったことを覚えています。トウモロコシ畑に吹き荒ぶ風の音が聞こえてきました。しかし、みんな暖かい家の中でバターとシナモンの香りに包まれていました。アイリスとマイケルは台所で私の後をついて回り七面鳥とパイのできるのを待っていました。アイリスは学校で先生から教わったアメリカン・インディアンの話やアメリカに移住したイギリスの巡礼者たちの話をしきりにしていました。アイリスは感謝祭にはクランベリー・ソースも不可欠だわと言っていました。あっ、クランベリー・ソースは忘れちゃったわ、と私は言いました。さつまいももよ。「それも知らなかったわ」と私は謝りました。あの時の楽しい場面は今も脳裏に焼き付いています。アイリスやマイケルが本物のアメリカの感謝祭のディナーを心待ちにしているあの輝いた目を今でも忘れることはできません。クランベリー・ソースやさつまいもがなくても心の中では完璧な感謝祭でした。

 

クリスマスの時、アイリスとマイケルはクリスマスツリーを立てるのを手伝ってくれました。私たちはクリスチャンではありませんが、この国の他の人たちと同様にクリスマスと新年を心から祝いました。私たちは人口のプラスチック製のクリスマスツリーを買いました。それは木を無駄に使うことへ抵抗と環境的良心の呵責があったからです。インターネットの時代の前はいつも親戚や友人たちにクリスマスカードを送っていました。アイリスにはおじいちゃん、おばあちゃんにも必ず書くようにと言っていました。私はアイリスと一緒に自家製のクリスマスカードを作りニューヨークに住む母のポーポーと父のゴンゴンに出すことが家の伝統になっていました。アイリスは漢字の腕前を見せるために中国語で自分の名前を書いていました。アイリスの名前は大きすぎてカードの半分を埋め尽くしました。私の両親はカードをもらって嬉しくて、中国のキャンディーやクッキーを送ってきました。この頃は本当に静かで祝福された家族生活でした。(end of chapter 3648p